シネパラ蒲田/蒲田映画祭 その2

 今年6回目を迎える「蒲田映画祭」はスペシャルゲストに大林宜彦監督や女優有馬稲子さんをトークショーゲストに迎え、9月華々しく開幕します。

IKETAMAは蒲田映画祭連動企画として、蒲田映画祭実行委員の皆さんに映画祭りや映画への想いを語っていただいています。

連載第2回は、蒲田映画祭プロデューサー 岡茂光さん。

 

岡 茂光

1994年港区生まれ。幼い頃からゲイリークーパー主演の西部劇を観ては、「映画って面白い!」と夢中だった。中学に入学すると無類の映画ファンのクラスメイトにフランス映画を勧められ、次第にヨーロッパ映画にもはまっていった。

『魅惑のパリ』でミッチーゲイナーと出逢う。彼女に手紙を書くと海を越え返事が来たというエピソードは当時学校でも話題に。大学では商学部に入るがもっぱら文学部の「映画と演劇」を聴講していた。卒業後は自動車会社に就職。

1980年からヨーロッパ各地に駐在。イタリアミラノにアルファロメオとの合弁事業販売会社を作り、オランダのアムステルダムでは欧州統括会社に勤務した。欧州赴任時の一番の楽しみは「映画のロケ地巡り」。

1997年日本に帰国。2004年に退職し、栗原洋三さんの勧めで大田観光協会に勤務。もともと映画の撮影所があった蒲田。映画への情熱を掛けるべく、「蒲田を再び、映画の街にしたい」と「蒲田映画祭」を仕掛け今にいたる。

 

岡さんからは2つの記事を寄稿していただきました。

女優が映し出されたスクリーンを背景にした、岡茂光さん

1「蒲田で孵化した映画祭」 岡茂光

 

 「蒲田はなんて言っても“映画の街なんだよ。映画祭はじめなさいよ、僕は何でも協力するよ」。目の前に座っておられる中学・高校の大先輩であり、こよなく蒲田を愛した小沢昭一さんの優しい言葉が最終的に「蒲田映画祭」誕生の決め手となった。時に2011年秋、『大田商い観光展』での出来事だった。

 

 1920年、すでに東京の歌舞伎界を制した松竹が映画進出の布石として蒲田に撮影所、「松竹キネマ蒲田撮影所」を設立した。当時の映画は大衆娯楽としての認知は未だされておらず、歌舞伎界の名だたる役者は松竹の映画進出に猛反対した。この時点では、東京の西端、蒲田の地で日本映画が夜明けを迎えるとは誰もが思ってもみなかった。

 

 しかし、撮影所に集った若者たちの映画への強い愛と情熱が旧態然とした日本映画の明日を導いていった。端的に言ってしまえば舞台の真似事の「活動写真」が新たな味付けをした「映画」に生まれ変わったのである。蒲田の地で起きた映画の革命、具体的には“映画の本場ハリウッドからの人材招聘”、“俳優演技研修所の設立”、“映画専門女優の育成”等々、枚挙にいとまがない。「映画は歌舞伎とは違う。映画の本質は日常的な出来事をさりげなく捉え、観客に夢と希望を与えなくてはいけない」。この基本的な考えの下で作られた映画は「松竹蒲田調」と呼ばれるほど映画ファンに強い支持を受け、松竹は日本映画の旗頭として君臨していくこととなった。

 

 1929年、撮影所10周年記念映画「親父とその子」の主題歌として登場したのが今でもJR蒲田駅のテーマ音楽として親しまれている「蒲田行進曲」である。この曲は撮影所の所歌としてばかりか街の人たちもこぞって口ずさみ、蒲田はこの曲の歌詞さながらに映画の街として成長していった。“春の蒲田、花咲く蒲田、キネマの都・・・・・、虹の都、光の湊、キネマの天地・・”。当時の人々が良く言った言葉を紹介しよう。「今日は蒲田に出て、映画を観てから洒落た洋食でも食べようか。ひょっとすると憧れのスターにも会えるかもしれない」。「流行は蒲田から」と呼ばれ、モダンな雰囲気が溢れた蒲田の街はまさに映画と一心同体で成長を遂げていった。

 

 1930年、松竹は今や手狭となった蒲田撮影所と決別し大船に新天地を求めた。そして忌まわしき大戦で蒲田の街は灰燼と帰した。しかし、蒲田に刻み込まれた映画のDNAは戦後に都内有数の映画街として鮮やかに復活した。当時、蒲田とその近郊には50ともいわれる映画館が軒を連ね新宿に次ぐ映画街として日本の映画黄金時代を背負っていった。

 時は昭和から平成へと移る中で、映画産業の衰退とともに蒲田の街から映画

館の姿が次々と消えていき、今は映画館の数はわずか二館のみとなってしまった。蒲田繁栄の礎を築いた映画が街から消えていくのは映画を愛する者としては忍びない。「元祖・蒲田行進曲」と自ら称した小沢先輩がこよなく慈しんだ蒲田で映画を今一度取り戻そうではないか。集まった同志は平均年齢60を遥かに超えてはいるが蒲田と映画を愛する気持ちは誰にも負けない。

 

 2013年第1回「蒲田映画祭」の幕が開けた。残念ながら小沢先輩は前年お亡くなりになられたが、頼もしき旧友が援軍として駆けつけてくれた。脚本家として名を成した大西信行さんは壇上から天にも届かんばかりの朗々とした声を張り上げた。「おい、小沢、お前が生きてたら絶対ここに居たよな!」。当時、文学座代表として活躍されていた加藤武さん、長年TBSラジオ人気番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」のプロデューサーとして小沢さんと二人三脚で寄り添ってきた坂本正勝さん等、著名の方々が在りし日の想いを切々と語り満場を引き込んでいった。

 

 松竹のキャッチフレーズで馴染まれているのが「女優の松竹」、ならば蒲田の伝統を受け継いだ女優さんに是非とも出て頂きたい。しかし、名前も知られていない小さな地域の映画祭に出て頂けるだろうか?ここで我々が予想もしていなかったことが救いの神となった。それは映画界で大活躍した人々が抱いている「蒲田ブランド」のインパクトだった。

 

 目の前に松竹を長年背負った大女優の岡田茉莉子さんが座っている。2016年、場所はホテル・ニューオータニのティールーム、映画祭トークショーの打診の時のことだった。大女優の持つ自信とプライドとはこのように凄いものなのか。完全に圧倒された私は、恐る恐る映画祭出演の可能性を尋ねた。間髪を入れず彼女の口から意外な言葉が飛び出した。「私の父、岡田時彦は松竹蒲田時代に大変お世話になりました。お墓には松竹さんに建立していただいた石塔がございます。それは生前父が俳優として活躍していた唯一の証です。私は御恩がえしとして出演しなければいけませんね」。映画祭当日、岡田茉莉さんはお父様の思い出をはじめ、松竹で自らがプロデュース、主演した「秋津温泉」をはじめとする数々の映画、名匠・小津安二郎監督との関わり合い等、普段聞けないような貴重な内容で聴衆を魅了した。小津安二郎監督の「東京物語」に出演した香川京子さん、「秋刀魚の味」に主演抜擢された岩下志麻さんも快く映画祭出演を受けて頂いた。その根底にはいつも「蒲田」に対する真の映画人が持つ畏敬の想いがあったように思われてならない。

 

 2018年第6回「蒲田映画祭」には大林宣彦監督と女優の有馬稲子さんをお迎えする予定だ。大林さんには2013年の第1回の時に励ましのお言葉を頂きプログラムの巻頭を飾っていただいた。「明日のための郷愁」のタイトルの下に大林監督は映画への深い愛を語るとともに、かつて映画の一時代を築いた蒲田で行う映画祭への期待を語っていただいた。我々は大林さんの励ましに応えることが出来ただろうか?今回のお話が実に楽しみである。岸恵子さん、久我美子さんの親友でもあり松竹と縁が深い有馬稲子さんのお話は映画のみならず”旅芸人“さながらに全国を行脚した舞台にも及ぶと期待している。

 

 2020年は蒲田と松竹にとっては記念すべき年になる。なぜなら、この年は「松竹キネマ蒲田撮影所」誕生100周年になるからだ。2013年に卵から孵化し産声を上げた「蒲田映画祭」は今もなお、よちよち歩きを続けている。しかし、よちよちでも歩けて来られたのは先輩諸氏の温かい励ましと、お客さまのご支援の賜物であり深く感謝申し上げる次第であります。記念すべき2020年には大空に向かって羽ばたけるように一層の努力、精進を続けていきたい。

2「我が青春の女神様」 岡茂光 

 

 “My name is Shigemitsu Oka, 13 years schoolboy・・・・”。今を去ること61年もの遥か昔、中学2年生の僕が、あるハリウッドの女優に出したファンレターの書き出しの一節である。僕はこの歳になるまでラブレターを日本語ですら書いたことがないし、今後も書くことはない。唯一、特定の女性への憧れの想いで手紙を書いたのが、このときの英語のラブレターならぬファンレターだった。

 

 このとき、英語の手紙を書くほどに13歳の僕の心をかきたたせた女神様の名前はミュージカル女優のミッツイ・ゲイナー、彼女の代表作「南太平洋」(1958年)が公開される1年前の時のことだった。小学校2年の時から小遣いの殆どを映画館に費やした僕、10歳を超える頃には生意気にも大人の仲間入りしたような気分でスクリーンに魅入られるようになっていった。つまり、興味の対象が西部劇、チャンバラ映画のヒーローだけではなく見目麗しき西洋の女優にも向けられていったのである。「なんと魅力的な女性がこの世にいること

か!」。

 

 女神のご降臨は1957年公開されたミュージカル映画『魅惑の巴里』で突然やってきた。この作品はジーン・ケリー主演のゴールデングローブ賞を受賞した小粋なミュージカルなのだが、何故か日本ではあまりヒットしなかった。軽やかなステップを踏んで登場してきた主役ジーン・ケリーの周りを三人の女性が取り囲んで踊っている。明るく華やかチャーミングな笑顔のミッツイに我が目は釘付けとなり、ほかの二人の女優はどうでもよい存在でしかなかった。上映中に三度通ってミッツイに見とれ、上映後にも映画館を訪れ、図々しくも壁に貼ってあったスチール写真を分けてもらった。良き時代であったものだ。

 

 それから暫く、ミッツイがミュージカル大作、「南太平洋」に主役抜擢のビッグニュースが飛び込んできた。公開は来年、待ち遠しくて仕方がない。それまでどうするか?その時不意に閃いたのが女神様に手紙を書くというアイデアだった。何事にもいい加減で、ちゃらんぽらん、不真面目この上もない餓鬼にしては突然変異のごとく“ファンレター大作戦”に頭を巡らせた。

 

 難問と思われた女神様の住所は愛読誌・「スクリーン」社に問い合わせたところ、いとも簡単に教えてくれた。ここからが僕の苦闘が始まった。何しろ英文手紙知識は皆無、とは言え、英語の先生には聞けない。ましてや両親に打ち明けようものなら、「何をバカなことを!」と一蹴されるに決まっている。そして約1か月の時間をかけた割には短い英語の手紙は東京からロスアンジェルス近郊、サンタモニカのミッツイ宅に向かって海を渡っていった。果たして女神様からのご返事は来るのだろうか?

 

 ある日、郵便受けを覘きアメリカの切手が貼ってあった手紙を見た途端胸がドキドキした。「返事が来たーー!!」。脱兎のごとく部屋に戻り心臓が早鐘のように打つ中、手紙を開ける。そこには紛れもないミッツイ・ゲイナーのプロマイドが2枚、“To Shigemitsu from Mitzi”のサインがしたためられていた。「やったー!!」。そのころのアメリカは遠い遠い異国、はるばる太平洋を往復して憧れの女神様と繋がったのだ。

 

 しかし、手に持つ封筒の感触がおかしい。何か入っているようだ? 中をあらためるため、封筒を逆さまにすると、数枚のアメリカの切手がハラハラと舞い落ちてきた。「なんだこれは??・・・・ あッ、そうか女神様は覚えていてくれていたのだ」。同封されていた切手の理由はこういうことなのだ。英語の手紙で何を書いて良いか分からない・・・・・さあどうする?そこで窮余の一策、文章の脈絡、体裁はいざ知らず唐突に「僕の趣味は切手収集です」と書いたのだ。ますます、ミッツイ・ゲイナーが好きになったことは言うまでもない。この話は当然のことながら自慢げに学校で披露したのだが、ものの一週間のうちに学年中に知れ渡るようになった。僕が学生時代に唯一、名前を挙げた出来事である。

 

 話は変わるが、数知れぬ観た映画の中で僕の生涯ベストワン映画はイタリア映画の「ニューシネマ・パラダイス」だ。なぜなら、この作品は主人公の少年時代、トトの目を通して、全編が映画への愛で綴られているからだ。悪戯っ子のトトが母の眼を盗んで足しげく出入りしたお気に入りの場所は映画館パラダイス座。そこの映画技師アルフレッドは初老とは言えトトにとって無二の友達であり映画のお師匠さんともいうべき存在だった。映画のラスト、今や映画界で成功したサルバトーレ(トト)が生涯の師であるアルフレッドからの形見のフィルムを試写室で見入る場面は何度見ても涙が滲み出てくる。そのフィルムは大好きな映画のキスシーンをアルフレッドが繋ぎ合わせたものであり、サルバトーレにとっては子供から青春時代の何ものにも代えがたい珠玉の思い出だった。少年トトはまさしくあのころの僕、胸躍る想いで映画館に駆け込み、煙草の煙と人いきれ、熱気が立ち込める映画館の固い椅子に座って日長スクリーンに喰い入っていた。

 

 僕の自宅の引き出しの奥にひとつのファイルがある。そこにはミッツイ・ゲイナーのプロマイド、出演映画プログラム、雑誌の切り抜きがギッシリと詰まっている。ただ不思議なことに、最大の宝物であるはずの彼女からの手紙はどこを探しても見つからない。あれは青春時代の幻だったのか?いやいやそんな筈はない。なぜならば女神様からのプレゼントである切手は入っているのだから。

 

 女神様、ミッツイ・ゲイナーは今や87歳、スクリーンからは遠ざかっているが舞台には時々出演しているというのが風の便りだ。我が青春の女神様に60年の時空を超えたお便りを出そうかな?そんな他愛もないことを考えている今の僕である。思えば僕の生涯は旅から旅、物心ついてからの引っ越しは15回を数える。住む国は変わっても言語は変わっても、どんなときにも常に映画との関わり合いが切れたことはなかった。映画は僕の生涯の友。今、「蒲田映画祭」のプロデューサーとして携わさせて貰っているのも女神様のお計らいなのだろうか。

くりらぼ町工BARで講演する岡さん
くりらぼ町工BARで講演する岡さん

第6回蒲田映画祭のゲスト、上映昨品が発表されています。詳しくは以下のFacebookページをご覧ください。

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