ちょい呑みフェスティバルで「街」を引っ張っていく ~武蔵新田ちょい呑みフェスティバル  実行委員会顧問 大内広興さん 5,000字インタビュー

いよいよ第10回目を迎える「武蔵新田ちょい呑みフェスティバル」。神奈川県藤沢市発祥のはしご酒イベントを東京で初めて開催したのは武蔵新田。4年前の5月のこと。3枚つづり2500円のチケットを購入し、参加店舗約30店の中からはしご酒ができるイベントだ。チケット1枚でワンドリンク・ワンフードを楽しむことができる。回を重ねることに来場者は増え、今や2日間で1000人が参加する一大イベントとなっている。

 

武蔵新田商店会の中華料理店萬福飯店矢口店店主 大内広興さん(51歳)は武蔵新田ちょい呑みフェスティバル実行委員会前委員長。その役職を若手に譲り、現在顧問を務める。丁度今回で10回目を迎える「武蔵新田ちょい呑みフェスティバル」が開催に至った経緯や、継続への苦労、若手への想いなどを大内さんに聞いた。

 

乗り越えた試練や、お客様との交流、スタッフ・家族への感謝……大内さんは、これまであまり明かしてこなかった胸の内を聞かせてくれた。

 

━━ちょい呑みフェスティバルを武蔵新田で開催した最初のきっかけは、商店街の副会長が藤沢でチラシを拾ってきたことだと聞きました。

 

はい、副会長が藤沢で車を走らせていたら、面白そうなイベントのポスターを見つけたそうなんです。それが「藤沢ちょい呑みフェスティバル」です。ちょい呑みイベントって藤沢発祥なんですね。武蔵新田って「飲食の街」と言われるくらい食べもの屋が多いんですよ。このイベントはこの街に合うと思いました。

━━それにしても大きなイベントを立ち上げるのって大変なことですよね。

 

はい、そのころ武蔵新田の中心にある新田神社で、「縁日」を定期的に開催しようという動きがありました。縁日には商店街の飲食店が模擬店を出すんです。そのため打ち合わせが必要でした。それがきっかけとなり、商店街の中に「飲食部」が結成されたんです。

 

━━「飲食部」の結成に苦労はありましたか?たくさんの店をまとめるのはそれこそ大変そうです。

 

もちろん大変でした。各店の店主はそれぞれが皆『一国一城の主』ですから。各店にはそれぞれのやり方があり、主張もある。意見を譲りません。でも、その結成の際に物販店にもかかわらず花屋のNさんが力を貸してくれました。皆で協力して「飲食店マップ」の制作もしました。制作をプロに頼まず、飲食部の力だけでデザインしたんです。こうやって少しずつ飲食部に一体感が生まれたんです。

━━そういった動きの中、同時に「ちょい呑みフェスティバル」の話も進めてきたわけですね。

 

はい、とにかく最初に聞いた時、「これは面白い!」と直感しました。武蔵新田には昔、工場がたくさんありました。自分が幼い頃、仕事を終えた人達が夜遅くまでこの街で呑んでいる姿を知っています。当時は街に活気があった。老舗の料理店やうなぎ屋の前にはタクシーが客待ちをしていたくらいです。「ちょい呑みフェスティバル」を開催して、もう一度あの活気を取り戻したいと思いました。それを飲食部の皆に伝えていきました。

 

━━具体的にはどのように「ちょい呑みフェスティバル」の企画を進めたのですか。

 

中心人物は花屋のNさんでした。藤沢まで足を運び、開催までのノウハウを聞いてきてくれました。「ちょい呑みフェスティバル」のロゴマークやキャラクターの使用許可を取ったり……。ホームページも立ち上げ(現在はFacebookに移行)飲食部向けに説明会も開いてくれました。初めのレールを敷いてくれた人です。とても感謝しています。他にも商店街のコーディネーターが大田区から補助金を取り、ちょい呑み用のはっぴやのぼりを用意してくれました。

ちょい呑みメニュー  各店舗工夫を凝らしている
ちょい呑みメニュー 各店舗工夫を凝らしている

 

記念すべき第1回は2014年5月。約20店舗が参加した。近隣の企業から協賛金を集めたり、区の後援をもらったり、酒造会社に景品提供を依頼したり、とにかく慣れないことばかり。毎日自分の店を営業しながら、こういった作業をするのは並大抵の忙しさではなかった。しかもどれも慣れない作業、大内さんは冷や汗を掻いた。

 

第1回を迎えてどんな感想を抱かれましたか?

 

━━街の様子が見たくて外に出てみると、大勢の人が首からチケットを下げ楽しそうに商店街を歩いていました。その様子を見て「街にこんなに人が来るんだ」と感動しました。「ちょい呑みは人を呼ぶ力がある」。そう確信しました。

1回だけのイベントに終わらせまいと大内さんは心に誓った。第4回から大内さんが実行委員長に就任。毎回30店舗前後の参加店をまとめていかなくてはならない。振り返る時、大内さんの顔が厳しくなった。

 

━━先ほども話したように飲食店の店主って皆、一国一城の主なんですよ。誰もがトップの存在だから、何かを決める時、それぞれの主張が激しくぶつかりあうことが多々ありました。最初はどうまとめてよいかわからなかった。イベントに関して、準備や運営をしていく中で誰かが疑問を持ったら、昼休みや閉店後に本人のところに足を運び、とにかく早く解決するように努力しました。それからちょい呑みは飲食店だけでは運営できません。それぞれの店は当日調理や接客に追われていますから、物販店の助けが必要になります。チケット売り場の設営など物販店の皆に頼るしかない。また町会の消火隊の女性がチケットを売ってくれることになりました。広報の女性はこちらが支払える報酬以上のことをしてくれている。申し訳ない気持ちと感謝の気持ちと……。そういった人達に自分はちゃんと感謝を伝えられているのかといったら自信ないですね。

 

 

それでもちょい呑みは続けようと思っているわけですよね。そのモチベーションってなんですか。

 

━━「来ていただいたたくさんのお客様に楽しんでもらいたい」その気持ちがモチベーションです。最初は本当にだめな実行委員長でしたが、やりながら学んでいきました。大事なことはこのイベントを通して街全体を盛り上げること。それぞれの個店が自分の店だけに満足していたら商店街なんて終わってしまうんです。「ちょい呑みフェスティバル」というイベントが街全体を引っ張っていく形にしたい。それが自分の使命だと思っています。

 

心が折れかけたことはありましたか?

 

━━たしか第6回の時でした。武蔵新田商店会、新田神社でのイベントが続き、自分自身が疲れ果てて、何をしてもやる気が起きなかった。チケット売り場にスタッフを頼むのを忘れたり、区から後援を得る手続きを忘れたり、自分でもどうしようもない状態でした。すべてが面倒に思えて。面倒なことってやりたくないじゃないですか。なんとか開催にこぎつけたけれど、当日を迎えたら街に活気がないんす。自分がそう感じてしまっただけかもしれません、でも何かがいつもと違っていました。一番つらかったのはお客様からのクレームですね。この回は一番多かった気がします。厳しい言葉が本部に寄せられたと聞いて落ち込みました。

この時の大内さんは、もうこのイベントをやめようと本気で思ったという。しかしその気持ちを変えるものがあった。アンケートに寄せられた温かい言葉だ。「ちょい呑み、本当に楽しい!」「年2回と言わず毎月やってほしい」「武蔵新田っていい街ですね」

決してクレームだけではなかったと知った時、大内さんの中でまだ終わらせたくないという気持ちが動いたとう。

自分のモチベーションをあげていくとともに、スタッフや参加店を集めて反省点や改善点を話し合った。それぞれがこの回の「失敗」「失速」を感じていただけに、重い雰囲気の中怒鳴り声も飛び交った。この話し合いを大内さんは忘れることはないという。

 

厳しい話し合いだったんですね。それでも続けようと思ったのですね。

 

━━自分はどう叩かれてもいいと思いました。とにかく頑張るしかないんで。あとね、自分ってどこかに楽観的なところがあるんです。なんとなるさって。

頑張る気持ちと、なんとかなるさっていう気持ち、いい意味での「鈍感力」みたいなもので乗り切れたと思っています。

 

ここで突然大内さんが口にした「鈍感力」という言葉。取材を進めるうちに理解することになる。

 

大内さんは武蔵新田にある和菓子屋の息子として生まれた。店を継がなかったのは「あんこ」が苦手だったから。「それなら手に職をつけろ」大内さんの父親は口を酸っぱくして言ったという。中学3年生の時、今も武蔵新田の人気店である「ラーメン日本一」でアルバイトを始め調理の楽しさに知った。高校3年で当時人気だったフランス料理「クイーンアリス」石鍋シェフの記事を読み、調理師になろうと決意した。服部栄養専門学校での勉強、長年に渡る有名レストランでの修行、フランスでの暮らし……。大内さんはフレンチのシェフとしても一流の腕前を持つ。帰国後、実家に店を構えようと考えた時、この街にはフレンチより中華の方が合うと考え、池上線御嶽山駅近くの『萬福飯店』で13年もの修行を積んだ。

 

結婚をして、一人目の子供も生まれ、暮らしが落ち着いてきたとき、大内さんは店で倒れてしまう。軽い脳梗塞くらいに思っていたが、それが脳腫瘍のステージ4であることが判明する。奥様のお腹には2人目の子供がいる時だった。普通なら絶望のどん底にいてもおかしくないのに大内さんは何も焦らなかった。ただただ「ゆっくりしよう」と心がけた。手術、8か月に渡る入院生活を受け入れ、外出許可が出たら銀座を歩いたりもしたという。

 

━━気持ちを張り詰めてばかりじゃだめだと思いました。鈍感であることも大事なんですよね。ステージ4と言われても、何それって感じでした。何それって思うようにしていたんです。ただ、当時を振り返ると、奥さんに迷惑をかけたなと思いますよ。8か月入院していたら上の子は自分の顔もわすれてしまうくらいでしたから。そしてその奥さんも今から2年前に脳の病気にかかったんです。ショックでした。でももう仕方ないと開き直った。その時は大きくなった子供たちに店を手伝わせながら夫婦でなんとか病を乗り超えました。なんとかなるさって考えるしかなかったんです。

 

奥様のご病気の時もちょい呑みの実行委員長をしていたのですね。

 

━━はい、やっぱり手放すことができなかったんです。やめることはできなかった。俺はね……

 

言葉が途切れた。大内さんの目から大粒の涙がいくつも落ち、顔を覆う。一瞬の出来事にとまどったが静かに待った。それから大内さんは一呼吸ついて、続けた。

 

━━俺はね、奥さんとこの街に心から感謝しているんです。奥さんは、俺がやろうとすることを絶対に否定しない。だからこそちょい呑みは続けたかった。その時、サポートしてくれたスタッフや仲間のことは絶対に忘れません。そして奥さんの病気も落ち着き、ちょい呑みも定着してきた今実行委員長を退いたんです。若手にバトンタッチをしました。

 

乗り越えたという想いがあったのでしょうか?

 

━━そうですね。そしてそろそろ若手に引き継いでいこうと思ったんです。今、皆が力をあわせて頑張っていて、とてもいい雰囲気なんですよ。自分は後方支援にまわり、若手のどんな相談にも乗っていきたいと思っています。街はずっと続いていくのですから、若手へ繋いでいくことは本当に大切なことです。自分は自分の立場でこれからも頑張っていきます。何があっても心折れずにやっていきますよ。

 

 

長く「ちょい呑み」を続けていると街の人との交流もあるという。初回に来てくれた若い男女3人組、駅前に流れる『ちょい呑みソング』に合わせて踊っていた姿を多くのスタッフが覚えている。萬福飯店にも必ず寄ってくれる。その3人が「次回のポスターのモデルに」と志願してくれた。やがて、その中の2人が結婚したと店まで報告しに来てくれた。さらに次の回のちょい呑みに、遠方に住むご両親と一緒に参加してくれた。

「ちょい呑みを両親に体験させたかった」2人はこう言ってくれた。

今年5月のちょい呑みのでは、のぼりを背景にベビーカーに乗った可愛い赤ちゃんの写真が送られてきた。「実は3月に子供が生まれました。今回はちょい呑みに参加できないけれど、成功をお祈りしています。次回は参加します!」こんな言葉がメールに添えられてあった。この街のこのイベントをこんなに愛してくれるのだと思うと、心から嬉しいと大内さんは言う。イベントの歴史は街の歴史、街の歴史は人の歴史でもあるのだと大内さんは思った。

10回と一口にいうが、継続は本当に大変だ。その大変さを忘れさせてくれるのはこういったお客様との交流だったと大内さんは振り返る。「1000人の人がすべて楽しんでくれているとは思わない。でも、武蔵新田を訪れ、はしご酒を楽しんで、良い思い出をつくってくれたら……」大内さんはただそう願っている。

9月19日(水)20日(木)、いよいよ第10回武蔵新田ちょい呑みフェスティバル開催である。大内さんは20回30回と続けていく決意だ。 

「チケットを首からぶら下げて、3軒まわってはしご酒」

本当に楽しいイベントである。両日、ぜひ武蔵新田へ!

 

 

 ライター YasukoOmiya

 


 

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