蒲田西口「飲食」を駆け抜けた日々
●灯りに集まる人々
蒲田西口に屈指の人気の立ち呑み屋『最後の楽園 レバーランド』がある。
夕暮れ、午後5時前から、蒲田西口サンライズ商店街のアーケードの脇道を入った小さな店の前に、たくさんの人が並んでいる。行列の向こうに、ぼんやりとオレンジ色の灯り。店の扉が開くと人波は吸い込まれていき、カウンターの前、テーブルの前と思い思いの場所に立つ。小さな空間が賑やかな店にかわるのはあっという間。老若男女、様々な年代の人たちが心を解放する空間。そこにはどこか懐かしさがある。そして新しい活力がある。

この温もりのある空間を作り出した人、店のオーナー本多広大さんに会いに行った。
私の前に現われた本多さんは、ニットの帽子をかぶり、adidasのパーカーを着ていた。人の好さがにじみ出た、かわいらしさのある人、それが第一印象だった。

●お笑いが好きなごく普通の少年だった
本多広大さんは大阪市生まれ。去年、平成29年12月に30歳になった。
広大という名前は「広く大きな心」を持ってほしいというご両親の願いから。
虫取りとお笑いが好きな元気な男の子だった。
「小さい頃はものすごくうるさい子だったらしくて、一分も黙っていられなかったみたいです」
姉の影響で深夜にテレビを観て、お笑い番組の芸人に憧れた。
中学生になると父親の転勤に伴い香川県三豊市へ引っ越す。そこにいる時も大阪弁を貫いた。
「大阪弁ってノリだけですげー受けるんですよ。つい調子にのっちゃったんですね。本気でお笑いを目指すようになりました。今にして思えば大きな勘違いだったのでしょうね。(笑)」
お笑い芸人を目指して家を出る決意をしたのは18歳。東京に出ることを選んだ。
「お笑い=大阪!吉本!って流れにあえて、逆らってみました。めちゃくちゃ粋がっていましたね」

●居酒屋でアルバイト もともと「飲食業」が好きだった
こうして本多さんは香川県から東京に出てきた。
高校の同級生と一緒に練馬のアパートを借り、「おぎやはぎ」らが所属している『人力舎』のタレント養成所に入った。東京暮らしは居酒屋でアルバイトをして食べていく日々。香川で居酒屋アルバイトをしていた経験が役に立った。
「もともと飲食の世界が好きだったんです。学校でアルバイトは禁止されていたからホールには出ず、厨房にいたんです。そこで包丁を触れるようになりました。ネギを刻んだり、オニオンスライスとかも……、指切りながらやっていましたね」
飲食業の世界で生きていく下地は、すでに高校時代からできていたのだ。
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